kodori

Kodoriヒューマン・ストーリー
5代当主・内藤誠治
尊厳と生きざま
人間には「歩く」という原点があります。もっというと、毎日、履き物を履いて歩くことで、人間の尊厳はつくられていると思っています。全世界のことを考えると、それはもう、奇跡に近いことでもあるんじゃないかと。

履き物を考えるとき、ファッション、おしゃれって何だろう、と。この10年、JOJOをつくってから、いつもそれがすっきりしなかったんです。
そんな頃に、花森安治が作った『スタイルブック』がない藤の神棚の奥から出てきて。戦後すぐの1946年に、名編集者が女性に向けて作ったおしゃれの雑誌です。巻頭に「どんなにみじめな気持ちでゐるときでもつつましいおしゃれ心を失はないでゐよう」とあった。それだ、と思いました。おしゃれって人間が踏みにじられて、もうどうしようもないときの拠りどころなんだな、と。布きれ1枚しかないときでも、それで身を隠すだけでなく、工夫して素敵に見せる意識が自分のなかにあること。

女性たちはそれこそ、ボロボロになりながら戦ってきた。コルセットから解放され、選挙権を得て、大統領にもなった。身近な年長者で、尊敬する女性たちに話を聞いても、「なにくそ」と思うからやってこられたわよ、とおっしゃいます。彼女たちはそれぞれが素敵だな、というおしゃれをしていて、その人と分離し難い。外見が格好いい、きれいだけじゃなくて、内面の自分らしさがにじみ出ている。
単に格好いいだけではファッションは成立しないと思うんですね。それは、自分の生きざまでないといけない。オリジナルであることが大切だと思います。アフリカにいるサプールと呼ばれる男性たちもそうですよね。貧しいのに、給料をつぎ込んで格好良い服を着る。どんなときもエレガントに美しく、自分を高め、他人を尊重して、まわりに尊敬される生き方をする。そこには「かっこいい、おしゃれ、楽しい」が、生きざまと表裏一体としてある。それは、人間の尊厳ともつながっている。そのことがkodoriをつくれるようになった理由です。

kodoriには、生きる道具として、2000年以上前からある日本の履き物の知恵を現代につなげています。たとえば西洋のハイヒールは、男性社会の中で、女性をもの的に扱っていた時代の目線があって、媚びるとか、隠すなどにもつなが る。そこは根本的に違うと思います。

男性であれ女性であれ、自分が装うという場面で、昔からある道具をひょいと持ってきたときに、一瞬で西洋的な目線から脱することができるように僕は思います。ヒールを脱いで、kodoriを履く。足元の安定と快適さは、自立するのに何が必要か、原点が何であるかを伝えてくれるのではないでしょうか。
流行に振りまわされるのではなく、長く続く美しさを見直し、さらに身体的な機能も鍛えられる。kodoriならそれが可能だと思っています。